2017.7.16

八百屋さん

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僕が住む町にある八百屋さん.
たくさんの野菜が床面にぎっしり.
僕はここに空間がある、と思った.
もしもここに野菜がなければ空間がないのだろうか.
ないのかもしれない.(魅力的なフレームなので残るかもしれないけど、弱まると思う.)
ある時、敬愛する写真家に、
「昼間は 場所の力 が見えなかったのに、夜になってそこを通ってみると とてもすごい場所に変貌していることがある.
逆に夜はなんとも思ってなかった場所に昼間訪れて、白昼夢のような不思議な場所の力を感じることもある.
これは、実在の場のちからか、それとも時間や光闇の状態がつくる幻想なのか?」
と質問したら、
「場のちから は合わせ技だと思う.その時間、そこにあるモノの組み合わせ、季節、天候.
だから 場のちから を体が感じたらば、そこには場所の力があるし、もっと言うと、同じ場所であっても全くおなじ場所の組み合わせはないとも言える.」
との回答をもらって、とても納得した事があった.
空間というものをどう定義するかにもよるけれど、
私感、建築の業界においては、  寸法、スケール、それらがつくる体系で出来上がるものだけを抽出し、それこそが純然たる空間と考え
そこに絡み、取付く 時間、生活の趣味嗜好、什器 (野菜) 、物で得られる効果、影響は建築の場のちからの 二次的なものと考えることが多いと感じる.
でも、思う.
この野菜が無くなって、力がなくなる建築がダメなのではない.
この八百屋の空間を見て、
野菜に頼るのがダメなのではなく、寸法もスケールも、絡みつく要素も全ては等価なのだと気付く.
(野菜だけじゃなく、カラフルな墓標のように林立する黄色い値札の反復もこの空間に影響を与えている.)
移ろう時間の中で全てをコントロールすることは難しいが、
そこで起こりうる場所の関係を 予想、考察、判断し、立ち上げて体系を構築していくことが空間をつくることなのだ.
時として偶然的な予想外の要素が良い影響を与えることももちろんあるけれど、ある一定ラインまでは偶然性に頼らずに成立させることがプロとしての矜持であり、必要な能力なんじゃないかと思う.
(場所の力と、空間、とは違う概念かもしれませんが、ここでは、ひとの体感に影響を与えうる建築の力として同義で扱いました.)