2021.2.14
最果さん
最果タヒさんの言葉の世界が好き。
好き、でくくってしまっていいものかどうかためらうけど、この詩人の世界にいつも陶酔してしまいます。
いつだったか、つくり手や表現者って、人々が深層心理では共有していても未だこちら側に顕せれていなかったものを表現できる人、っていう言葉に出会って納得したことがあったけれど、(だから、多くの人が共感できる優れたもの(多くの人が共感することが必ずしも優れたものという定義ではないかもしれませんが)ができたときに、これ、わたしも考えてたんだ、という声が多いんだとも思います)最果さんの人や自身をえぐるような、言葉にそのことを思います。でもその先に光を感じるから不思議。
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きのう共感した最果さんの言葉
誰がどう思うかや、多くの人が賛同するのかどうか、が、詩の前においては、全く消え去ってしまうと感じている。詩は、「どう読まれたいか」を期待して書かれた言葉ではなく、一つの物を届けようとする言葉でもないから。詩を前にしたとき、その人には「自分はそれをどう思うか」しかきっと残されていない。
ここで、詩が、本当にそこに物質としてあって、自分の立つ場所や、タイミングによって姿を変えていくとしたら。自分はどう思うか、ということも、瞬間瞬間に切り替わり、より刹那的になっていくのかもしれない。そうして、それでも消えることはない「自分」の奥に、見えるのはきっと「存在の確かさ」だ。
詩、という言葉が指すのは、作品そのものより、その内側にある光や痺れ。それらを見つけるのはいつも、読んだ人その人自身であって。あれは詩だ、と思うとき、言葉の向こうに光を見つけた「自分」の存在が証明される。
わたしは、そう信じています。
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